絶望は愚者の選択


by beautiful_japan
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アヒンサー・ジハード・ブシドー

NHKの青海チベット鉄道〜世界の屋根2000キロをゆく〜を見た。この列車に乗って終点のラサにある主のいないポタラ宮を巡礼するチベット族の家族が五体投地するのはタイル貼りの歩道で、すぐ後ろのアスファルトの国道はまばらながらも絶えず車が走り抜ける。かっては秘境と呼ばれたラサに漢字が溢れ中国資本の商店が立ち並ぶ。時間の問題でこの聖地も更なるグローバル化が貫徹されて行くのだろう。中国によるチベット文化への蹂躙を改めて目の当たりにして思うのは「非暴力」思想の事だ。チベット仏教による非暴力思想を頑なに守り続けるが故に、チベットの伝統文化を守れないと言う矛盾。しかし、そこにはチベット仏教に対する確たる信仰がある。その一方で、徹底的な抗戦の姿勢によりアメリカ・イスラエルの暴虐と渡り合っているイスラム世界。翻って日本を見ると何一つ核となる思想も持たずに、なし崩しに侵食されて行くだけだ。強いて日本に思想性を見い出すならば「長いモノには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」だろうか?平和憲法は言うならば非暴力思想の一つだが、日本の「非暴力」に何らかの核となる実体は見られない。それは「お上」に与えられた民主主義と同じ様に「お上」に与えられた非暴力であって、決して自ら血肉化したものではない。

「非暴力」(アヒンサー)と言えば先ず思い浮かぶのはマハートマ・ガンジーだが、インドのそれは「神への絶対的な信仰心」によってもたらされる。つまり「神を信じる人は、決して他人の生命を奪うような事はしない。必要とあらば、彼は自らの生命を投げ出すだろう。そして死を克服して生き抜くだろう」と言うイスラムのジハードにも似たラジカルな思想である。その両者に見られる精神の絶対的な優位性 を武士道に見る向きもあるが、そこで求められる忠誠の対象は単に制度としての「お上」でしかなく、存在の基底である「神」に対する絶対的な帰依ではない。たかだか人の作った制度に対する忠義では、どうしても田舎(井の中)者の矮小さは否めない。一見ジハードにも似た特別攻撃隊があっても「忠」の対象が卑俗な権力の制度でしかないから、白旗を揚げたらレジスタンス活動をする訳でもなく一夜にして「ギブミーチョコレート」に変る。話を元に戻すが、ぬるま湯に浸かった「平和を愛する日本人」が自らの死を賭してまで求める過激な「非暴力」の思想的基盤を理解しないまま「平和憲法護持」を念仏の様に唱えても、また「お上」の意のままに庁から省へ、省から軍へと出世魚の様に名前を変えて行っても、日本の未来は全く見えて来ない閉塞感。

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by beautiful_japan | 2007-01-03 23:54 | 宗教 vs グローバル化