絶望は愚者の選択


by beautiful_japan
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愛国心を強制しながら、愛国心を持てない政策を徹底するダブルバインド

■「鉄コン筋クリート」には絶望的状況を生き延びるための絶望的作法だけがある。故に「痛い」のだ。何が絶望的状況か。大阪の新世界に似た宝町が、昭和30年代的ワンダーランドからディズニーランドへと変容することだ。様々な老若男女の共生する町から《おこちゃまの町》(蛇の台詞)へ。それに抗えないという絶望だ。

■宝町。そこは「人が、町に守られているが故に、人を守る」町。クロ(暴発が止まらぬ少年)は町に守られてシロ(予感が止まらぬ少年)を守る。ネズミ(地回りボス)は町に守られて木村(ちんぴら)を守る。逆に言えば「町に守られない限り、人は人を守れない」。だから「人を守れなくなった自分には、もう町はどうでもいい」。かかる因果が描かれる。

■「町に守られないと、人が人を守れない」という度合で、町のパトリ度を測れる。パトリとは入替不能な郷里のこと。「町に守られないと、人が人を守れない」社会で、初めてパトリオティズム(郷里を愛する構え)が意義を持つ。

■町は建物の集合体ではない。かつて町は「自立的相互扶助」のネットワーク。パトリ度が高かった。今の町は「市場&行政的サービス」のネットワーク。「善意&自発性」が「役割&マニュアル」に置換され、人が入替可能になる。その程度に応じてパトリ度が下がる。

■ワンダーランドはパトリ度が高く、ディズニーランドは低い。その証拠に、ディズニーランドは各地にコピーが作られてきた。マニュアルに応じて役割を演じられれば誰でもいいからだ。多人種構成の米国で開発されたこの〈システム〉が、グローバル化を推進した。

■パトリオティズムは先験的価値ではない。「町に守られないと人が人を守れない」度合が下がれば、パトリは自動的に価値を下げる。例えば非土地的なネットワーク社会たる中国ではパトリの価値が低い。収奪と殺戮に色彩られた帝国史の故だ。

■空間的差異を時間的差異に置換しても同じだ。パトリが空洞化する程パトリオティズムが価値をなくす(が故にパトリの空洞化が進む)という厳然たる法則がある。空洞化が始まると後は加速度的だ。そうなれば「共生主義からルール主義へ」は不可避となる。『鉄コン』はこの不可避性を、絶望として表象する。

■無論、町に守られることは(前述の如く)町に縛られること。Political Incorrectを承知で言うと、町の反人道的な縛り故にこそ人が人を守れた。「町に守られるが故に人同士が守り守られる」関係を、〈システム〉の計算可能性を脅かすノイズだと見做したのだ。

■合法非合法の境を超えて「町に守られるが故に人が人を守って来た」パトリの終焉とともに、警察国家化が進められてきた。かくして〈生活世界〉の残火をかき消して〈システム〉が全域化した。計算可能化に向けた社会の成熟がもたらす回復不能な変化。「町が人を守れなくなり、それ故に人が人を守れなくなった空間」では何もかもが入替可能化する。

■『鉄コン』の林檎の種は決して芽吹かない。二重の意味がある。「町」では「ここではないどこか」を夢見ることしかできないという不可能性。「ここではないどこか」を夢見ることができた「町」はもう存在しないという不可能性。私たちの「痛み」は後者にある。(read



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by beautiful_japan | 2007-02-11 23:54 | アメリカ イスラエル