世界の中心で怒り叫ぶ 感情に押し流される理性
2007年 02月 16日
御遺族の「怒りや悲しみ」は人間として当然の感情だけど、公の場で感情を垂れ流す昨今の報道傾向にある種の薄気味悪さを感じる。これと一対となっているのが「世界の中心で愛を叫ぶ」や「いま、逢いにゆきます」に代表されるこれ又気持悪い一連の「泣き」映画だ。この手の薄気味悪い感情の流出にカタルシスを感じるのは日常生活で感情を抑圧し過ぎた代償行為なんだろうか?
去年の夏に飲酒運転の車に追突されて海に転落して三人のお子さんを亡くした御両親の応対は、そんな浅ましい垂れ流しと一線を画す清々しい態度で心が洗われるような感銘を受けた。祇園山笠で育った博多っ子の父親に向かって「犯人に何か言いたい事ありますか?」と例によって例の如く呪詛の言葉を引き出そうとするインタビューアーを「言葉になりません」と一蹴。母親も涙一つ見せずに気丈な受け答えをしていた。その後も御両親共に冷静な態度で理性的な発言に終始したのは、伝統が今も息づいている地に産まれ育ち今もその中で生きているからだと勝手に解釈している。
ポルノと同じように劣情を煽ると視聴率が上がるらしいけど、理性的であるべき司法の場にまで感情論を持ち込み社会全体が感情に流される愚行の果てにあるものを見据えるべきだ。裁判員制度・国政選挙・国民投票そして国際紛争等々、感情論で選択を誤ると取り返しのつかない懸案が目白押しだ。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である」ダンマパダ(法句経)
■世に倦む日々に書き込んだコメントが瞬時に削除さたので抗議させて頂きます言論封殺・常時監視の恐怖政治(read)