絶望は愚者の選択


by beautiful_japan
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充電完了!自然に触れて五感六感それ以上の放電・充電して来ました。私たちは決して金融システムの「マトリックス」の中で生きている訳ではありません。ソーラーシステム(太陽系)の中で「水の惑星」に生かされているんです。歩いていると徒労感に襲われる「クリックして出来た」無味乾燥な街ばかりが増殖して、「どんな隙間にも情報が突き刺さっていたあの時代」の「人が歩く速度で暮らせる町」は絶滅寸前です。そんな「クリックして出来た街」のタイルの隙間から太陽に向かって夏草が顔を覗かせていると心が弾みます。だからタ・プローム遺跡が崩壊して行くのがいい。


オゾン層の破壊もあって「日光浴」は忌み嫌われるようになっちゃったけど、必要な
ビタミンD」の90パーセント以上は、太陽の紫外線B波のエネルギーを皮膚が吸収することで生成されますし、日光を浴びると視覚から縫線核に刺激が行き「セロトニン」の放出が始まって交感神経が優位になり、意識が覚醒します。皮膚癌は困るけど多少のシミやシワが出来ても陽光を感じるのは私にとって快楽の一つです。ケータイのデザインにもファッションとして経年変化を取り入れようって時代ですよ。「赤ちゃんのような素肌」な強迫観念から抜け出してみたら?


かと言ってどんより垂れ込めた灰色の梅雨空を鬱陶しいとは思いません。雲一つない青空は確かに心も晴れ晴れして気持いいけど単調でつまらない、水墨画のような複雑な濃淡と「フラクタル」が刻一刻と変化して行くのは見ていて飽きません。それに「いいお湿りですね」と言う伝統的な言葉も大切にしたいと思います。言うまでもなく私たち人間は「光合成」の恩恵に寄生して生きているからです。ダムが貯水不足にでもならない限り雨は鬱陶しいもので、気象予報士も「今日はいいお天気です」とは言っても「今日はいいお湿りですね」と口にする事はありません。「江戸しぐさ」の復権が話題になってますが、「今日はいいお湿りですね」も取り戻したい感覚の一つです。

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知ってる人は何を今さらって話なんですが是非是非このCDの1曲目を聴いてみて下さい。YouTubeにPVあるけど、この曲は自然に内からイメージが湧き上がって来るので中途半端な映像見せられても変な先入観で台無しになちゃうからリンクしませんし、捜さないで下さい。

前にも言った通り基本的に私は「歌」より「音」が好きなんですが、この曲だけは別格です。「歌」が「音」の次元まで昇華されてます。ある時、日本語が全く判らない外国人に「何て歌ってるのか意味が知りたい」と聞かれました。

私の貧弱な語学力でイマジネーションの広がりも含めて説明するのは苦行でした。けど言葉の意味が判らないのに、この曲の言霊に「何か」を感じる人には何としても歌詞の意味を伝えたい使命感にかられて数回に渡ってメールで伝える努力をしてみました。キチンと意味が伝わったのかは未だに不明ですが、そのポルトガル人はローマ字を見て日本語で口ずさんでるみたいです。

2001年にこのCDと「クローカ」が発売されて「クール・ジャパン」な21世紀に希望を持ったのはもう遠い昔の話。クローカの人はレコード番長に成り上がっちゃって興味がなくなったけど、これの1曲目は個人的な思い入れ抜きにして現時点で21世紀のベスト3に間違いなく入ると思います。それ位凄い曲です、鳥肌ものです!

アフェリエイト貼ってませんし、そもそもアマゾンで買うのもお勧めしてません。ただ単に情報量が多いからリンクしてるだけなので、あなたが私のブログを見てもしも「何か」感じたなら、だまされたと思って近くのお店で買ってみて下さい。私がお金持ちなら返金保証したい位お勧めしておきます。今日から100年間毎日更新してもこの1曲の持つ力には到底及びません。(音楽の偉力

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共通感覚とは、五感をバラバラにしないで、つねにそのいずれかを複合的に組み合わせて発揮してきた知覚のことをいう。こんなことは古来、誰もがやってきたことで、ごくふつうに考えれば、われわれが「コップに手をのばしてその水を飲む」という行為の中に完全に成立しているものである。幼児だって、コップの水を飲めるようになったときは、完璧な共通感覚を発揮できたということになる。つまり、こんなことはそれこそ“常識”なのだ。

ところが、ハンナ・アーレントが指摘したように、この共通感覚がいつしか“世界”となんの関係もない内部能力になってしまったのである。そもそもは人間が本来もっていた知覚能力だったはずなのに(幼児はそのような共感覚をもっていると想定されている)、いまやそのように感じられることを告げる能力の持ち主だけが「驚くべき日常者」だということになってしまったのだ。

自己と他者というものはつねに「場面」や「あいだ」を媒介にしてコミュニケーションをし、相互の確認をしていくものである。その「場面」や「あいだ」には、人々がついつい忘れてしまっている共通感覚が必ずや呼び覚まされる必要がある。その共通感覚をキックする感性や話題や出来事が「自己と他者」の新たな動向をつくっていくはずであるからだ。しかし、その方法には「負」も必要だ。(read

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by beautiful_japan | 2007-07-25 23:55 | 雑談 ライフログ