絶望は愚者の選択


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■三島が陽明学を理解できなかったのには理由がある■

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■若木100日スト 三島を魅了
三島由紀夫(必読)の長篇小説に「絹と明察」がある。「子」である従業員は「親」の自分に従うのが当然と考える社長が、労組に破れるという物語だ。

モデルは1954年夏、若者を中心に100日あまりを闘った近江絹糸紡績でのストライキ。封建的な企業経営に戦後の「労使対等」が持ち込まれ、世間から喝采を浴びた人権争議である。三島の取材を受けたのは、いま民主党滋賀県連の幹事長を務める朝倉克己(73)。スト当時19歳だった。・朝倉は小学生のとき父親を亡くした。近江絹糸の「働きながら高校へ」といううたい文句につられて入社し、滋賀県彦根市にある工場の寮にはいった。系列の私立高校に行ける、という意味だった。県立の定時制に行きたかった朝倉は入試の日に残業を命じられ、受験できなかった。

県立の二次募集は、工場の塀を乗り越えて受験にいって合格した。授業に最後まで出ると、寮の門限に遅れるしかなかった。守衛の毎日記録され、会社での評価は下がった。毎月、低い評価の順に従業員は解雇されていた。手紙は開封、寮に来る新聞は黒塗りだらけ、密告の奨励。従業員はいつも監視されていた。

会社の目が届きにくい深夜勤務明けや高校の教室で、朝倉は工場の仲間らと労組づくりを話し合った。大阪の本社に、繊維産業を組織する「全繊同盟」の労組ができ、ストに入ったと知った。朝倉らは工場での決起を6月7日午前2時と決め、電気を消す、機械を止める、などの分担を決めた。

決起の前日、朝倉は工場の外に出て、大阪の労組に報告の電話をいれた、つもりだった。だが電話を受けたのは本社の人だった。朝倉が工場に戻ると、何人もの管理職が待ち構えていた。つかまって隔離され、厳しく責められた。午前1時半ごろ、朝倉はトイレにいった。付き添ってきた管理職らに「もうすぐ社会が変わるんだ」と告げた。午前2時、工場の電気が消え、機械も止まった。朝倉は管理職を振り切り、決起集会で労組の結成を宣言した。はじめは男400人だったが、やがて女子工員も加わって2千人に。そのひとり、雨森幸子(71)は、「たぎる思い、正義感だったのかな」と振り返る。(中略)

三島が朝倉を訪ねたのは、ストから9年後だった。朝倉が深夜の決起を話すと、三島は「まるで忠臣蔵ですな」と愉快そうに笑った。いっしょに酒を飲んだ。三島は色紙に、朝倉の好きな言葉「人生意気に感ず」と書いてくれた。三島の自決はその7年後である。(後略)鶴見知子

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by beautiful_japan | 2007-10-09 23:53 | 宗教 vs グローバル化