■Universe Tree■
2008年 03月 28日
■ここでわたしが指摘したいと考えていることのすべては、全体がそれぞれの意味ある断片のうちに存在するということは「分担の法則」(レヴィ・プリュ−ルによって理解されたような)が妥当するのではなく、それぞれの意味ある断片が全体を再生するゆえである、ということである。樹木は樹木たることを続ける限り神聖となるのは、それがあらわすところの力のゆえである。だから樹木が宇宙木となるのは、それはそれがあらわすところのものが宇宙があらわすところのものを完全に再生しているゆえである。聖樹は象徴的なものとなるために、その具体的な自然の性質を失う必要はない。シンボルが具体的形態から分離し、抽象的要素となる以前に、実に多くの精神的段階を通過しなければならない。
すでに見てきたように、木や草は一般につねに無尽蔵の生命を体現している。それは、原始的オントロジーにおいては、絶対実在に、とくに「聖」に符合する。宇宙は木によって象徴され、神は樹木の形をとってあらわされる。豊饒、富、幸運、健康、さらにずっと高いレヴェルでは不死、もしくは永遠の若さ、は薬草とか樹木に集中されている。人類もしくは種族は、植物種に由来する。人間の生命はその終りを全うする以前、何かの陰謀によって短く断ち切られたとき、植物の形の陰に避難する。
要するにすべて存在するもの、すべて生きているもの、創造力あるもの、絶えざる再生の状態にあるものは、みずから植物のシンボルとしてあらわれる。宇宙が木としてえがかれるのは、一つものの如くに季節的に再生するからである。春はすべての生命の復活であり、従って人間生命も復活する。この宇宙行為のなかに、すべての創造力はその最初のたくましさをとり戻すのである。生命は全体的に再構成される。万物は新鮮さに帰る。要するに宇宙創造の原初の行為(わざ)がくり返されるのだ。なぜなら、どの再生も新生であり、初めのときにあたって一つの形態が絶えず再生されるべきものとしてあらわれた、その神話的モメントに帰ることだからである。(read) ■Happy Tree Friends