絶望は愚者の選択


by beautiful_japan
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■感情的になってるきっこさんに冷静に答えてみる■

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だけど、物理的に逆らうことのできない父親に、虐待された物心つかない子供にまで「責任」を問いかけたことにだけは、正直、心の底からガッカリした。わずか18才の少年が、野蛮な父親に虐待されて歪んでしまったのに、その少年のほうに非があるというきっこさん。あたしは、こうした人たちって、自分自身が、ホントに苦しんだことのない「恵まれた人たち」なんだと思う。理不尽な暴力によって、自分が苦しんだことがないから、こうした無神経なことを言えるんだと思う。ようするに、想像力が乏しくて、人の痛みが分からない人たちなんだと思う。「親による虐待被害者」という泣き寝入りするしかない立場から言わせてもらうと、「少しは人の痛みを感じて欲しい」ってことと、「人の痛みが分からないような鈍感な人は、ヨケイなことは言うな!」ってことだ。だから、最後に、もう一度だけ言わせてもらう。父親に虐待されたことのない人間や、自分の愛する母親が自殺したことのない人間は、こうした事件が起こるたびに、自分の脳内の理想論を垂れ流さないで欲しい。一生消えない心の傷を負ってる被害者にとって、そうした他人ゴトの無責任な発言こそが、傷口に塩を塗られるようなものなんだから‥‥。

冗談はさておき、身内を殺された被害者が復讐するのに死刑はヌルイ、生温い。死んだらそれでもう終り、犯人は何も感じずに涅槃逝きだよ。前にも書いたけど、自らの罪を自覚させて悔いて悔やんで苦しんで苦しみ続ける方が犯人にとっては辛い刑罰だと思うんだけど?だから単純に死刑は残虐だから反対なんじゃなくて、そう言った意味も含めての「私は死刑を人間精神の深遠さを無視した短絡的で粗雑な刑罰と評価している」なんで、そこんとこ夜露死苦!これはお勧めしてる訳じゃないけど、知人の美少女が幼女の頃従兄弟にずーっと性的虐待受けてて挿入出来る程度に成長したらモチロン処女奪われて日々犯され続けて、天性の美貌なんで思春期になったら今度は遊び人に嵌められてシャブ漬けにされた挙句SM調教写真まで撮られて。で、最終的に従兄弟は友人のチーマ−に、チンピラの方は本職の方に締めてもらって二人とも片輪になっちゃったって実話があるんだけど、本気で八つ裂きにしたい程憎んでるならグダグダ言ってないで肚決めてそこまでやっちゃったらどう?ちなみに彼女はそこまでやっても心の傷は全く癒されず完璧にメンヘラーだったけどね。だから「被害者の救済」に関して言えば「被害者の憎しみや悲しみ」が消えるのが真の救済であって「加害者への復讐」ではないと思います。

きっこさんは恩人なんで細かい挙げ足取りは止めとくけど「光市母子殺害事件」の被害者は本村洋さんであってその御本人が愛する妻子を無惨に殺されて9年間苦悩した末に「両手放しに死刑は必要だとか、間違っていないとは言えない」「少なくともいったんは犯行事実を認めて謝罪して反省したのに翻したのが悔しい。最後まで事実を認め、誠心誠意、反省の弁を述べて欲しかった。そうすれば、もしかしたら死刑は回避されたかもしれない」とおっしゃってる訳で、ギャラリーが「すべて死刑にすべきなのだ。それも、徹底的に残酷な方法で」って金切り声上げるのってどうなのよ?レイプ被害者のきっこさんが感情的になるのは判るけど、それってリンチと変わらないんじゃないの?きっこさんには同情するけど、外野の声で量刑が決まるようになったら法治国家じゃないでしょ?「幼いころに不幸だった子供が大人になった場合に、100人が100人とも凶悪犯罪を犯すようになるんなら、光市の凶悪犯だって、情状面を考慮してやってもいいと思う」ってきっこさんは言うけど、知力体力に個人差があるように精神力にも個人差がある訳よ。んで不幸だった人にも内向的な人と外向的な人がいる訳、だからリスカする人もいればネコを殺したりする人もいる。そんで大抵の人は信頼出来る「他者との出会い」によって傷が癒されて真っ当な道を歩もうと努力するんだけど、彼はその機会に恵まれなかったから不憫だって言ってるの。要するに虐待被害者で凶悪犯罪に至るのは最底辺の弱者だって事。

■子どもの場合は「母親の身体動作を模倣することで、自分の脳神経回路を母親の脳神経回路と同様なものに組織化してゆく」子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである」こういう書き方をするとまだ「主体と他者」という二元論の枠内であるけれど、実際には「主体」という機能自体が模倣の効果なわけであるから、最初にあるのは「模倣する主体」ではなく「模倣それ自体」なのである。だとすれば、「人間を中心に据えるのではなく、複写(模倣)を中心に据えて考えたほうが適切ではないだろうか」(read

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by beautiful_japan | 2008-05-05 05:05 | 雑談 ライフログ