絶望は愚者の選択


by beautiful_japan
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■複数のロールモデルによる気付き■

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■二人の師匠
人は単一のロールモデルが示す「すっきりした」プログラムに従って訓育されている限り、必ず技術的な限界にぶつかる。必ずぶつかる。それは「私」がプログラムの「意味」を理解したことによる限界である。「このプログラムによって、私のこの資質、この潜在能力が開発され強化されるのだな」ということが「私にわかった」ときにプログラムの教育的効果は不意に限界に突き当たる。 どうしてかしらないけれど、そうなのだ。 たしかに引き続きそのプログラムで訓練しても、局所的な技術や部分的な能力は上がるだろう。けれども、それは「檻の中でぶくぶく太ってゆく」ような膨満感しかもたらさない。教育されることは本来教わるものに「のびやかな開放感」をもたらすはずである。そのためには「私は私を教育するプログラムの意味や構造について完全に理解した」ということがあってはならないのである。プログラムは私の「外部」に/でなければならない。しかし、プログラムそのものは異論の余地なく「正しい」のである。だから、それとは違う「もっと正しいプログラム」に乗り移ることは解決にはならない(同じことを繰り返すだけである)

そうではなくて、この「正しいプログラム」に「正しいがゆえに居着いてしまった私」をそこから引き離すことが問題なのである。「正しいプログラムへの居着き」は「間違っていない」のである。けれども、そこに居着いては技術の向上が停止する。「正しいこと」を「正しいから止める」ということは論理的には人間にはできない。そこで、要請されるのが「同じ一つの正しいことを別の言葉で言う二人の師」である。彼らは「同じ一つの正しいこと」を教えるのだが、使う言葉が違う。言い方が違う。だから、教えられる方は「だから、何が言いたいんですか?」と困惑する。 けれども、この「不決断」は「正しい教え」の中での「揺らぎ」なのである。いくら揺らいでも、絶対「誤答」に行き着く恐れのない、「どこに転んでも正解」という枠内で揺らいでいるのである。このような揺らぎに身を委ねることで、私たちは「正しさへの居着き」から解き放たれる。

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■昨日の「強い苦しみはわれわれを知恵にみちびく」と一カ月前の「治療というのはいまの状態を変えるということ」と一年前の「メタプログラミング」は使う言葉が違い、言い方が違うだけで「同じ一つの正しいこと」を教えている。普遍性のある真理の言葉だ。
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by beautiful_japan | 2008-08-31 23:55 | 和心 覚醒