【負の側面】松岡正剛氏の矛盾【知行合一】
2007年 11月 02日
■透徹した精神
しかし、自分はいまこそヴェニスの色あせた天井裏の一枚の絵のために、いっさいの経済の知識と社会の価値をめぐる思想に全力を傾注しなければならないのではあるまいか‥‥。
みんなラスキンに学んで「透徹した精神をもつ」ということを学んだんです。「社会をよくする」という思想を教わったのです。いま、いったい誰が社会のために価値を作り出しているのでしょう?経済と倫理を同じ作用のものとして見るには、ラスキンの思想がどうしても必要ですよ。それも日本にこそ必要です‥‥。第一、ラスキンの思想を流行させようというのがおかしいし、ラスキンは大受けをせがむような、そんな男ではなかったはずである。
それにラスキンには、その思想が忘れられてよいようなものは、何もない。では、いったい何がラスキンを凋落させたのか。ラスキンの倫理が古くなったのか。そうではない。ラスキンの趣味が使いものにならなくなったのか。ラスキンの教育論が時代に合わなくなったのか。そうではない。イギリス人も日本人も資本主義市場の過熱に屈しただけなのである。われわれのまわりに三人のプルーストも一人のガンジーもいなくなっただけなのだ。
そこで「ブラックウッズ・マガジン」がターナーの絵を攻撃していることに驚いたのである。ラスキンはこういう無理解者が絶対に許せない。すぐさま反論を書く。それが17歳のときである。それからというもの、ラスキンはターナーにひそむ意志と技法と美意識を、すべての芸術領域にまで拡張していった。
イギリスは世界史上で最初の資本主義戦争をアジアに仕掛けた。アヘン戦争である。ラスキンはこういうイギリスに名状しがたいほどの腹を立てていた。ヴィクトリア朝の社会文化がつまらなかったわけではない。しかし、ラスキンから見ればその大半は市場の欲望のために作られたものであり、産業高揚のためのものばかりだった。それでは何も時代を超えるものは出てこない。ヴィクトリア朝特有のアッパーミドルの出現も気にいらない。そんな社会や産業はつまらない。ラスキンはそう感じたのである。
なぜラスキンは同時代を嫌ったのか。このことにピンとくるには、マルクスとラスキンが1歳ちがいだったことに気がつくといい。二人はまったく同時期に、同じ産業社会の矛盾を見ていたのだ。大英図書館で新しい経済思想づくりにとりくんだマルクスが、産業社会の爛熟を予測してその大否定に臨んだように、ラスキンもまた産業社会の未来を憂慮するに、徹底した覚悟で臨んだのだ。
『塵の倫理』にはこうあったものだ、みなさん、塵には地球と生命と社会のすべての結末が飛沫となってひそんでいるのです、その塵からこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なのですか、何が経済なのですか、何が教育なんですか——。
■倫理的な矜持
おそらく、現代になればなるほど、ラスキンのこのような倫理的な矜持は、はなから嘲り笑われるだけであろう。非凡な才能であらゆるジャンルの書物を解説される松岡正剛氏ですら、そのブログで、次のように嘆息されている。
「トルストイやプルーストやガンジーが学んだラスキンを、いったいどのように今日の社会にふり向ければいいのだろうか。……ラスキンが同時代に背を向けてしまったように、ラスキンを現在の社会に向けるというそのことが、非ラスキン的なことだと、……そういうことだったのだろうか」
いや、待って欲しい。昔、死の前夜にあった特攻隊員の多くが、娯楽小説よりも、宗教的な『嘆異抄』を読んだという事実は、限りなく重い。明日死に行くことを覚悟した特攻隊員の多くは、最後の瞬間に、酒で怖さから免れようとはしなかった。悄然と死を見つめた
。それが、人間の「自然」であると私は信じたい。
投下すべき原子爆弾を積んだ戦闘機のパイロットを迎撃することは間違っている、彼の良心に訴えるべく、白いハンカチを振って、攻撃を辞めろというのが正しい選択であると、彼を敬う外国人記者に語ったガンジーの心のすごさに、私はやはり魂の震えを感じる。主よ、私を殺そうとする彼らをお許しください、彼らは、なにを成すべきかを知らないだけなのだからと、主に祈ったイエスの言葉は、宗派を超えた永遠の真理である。
そうした真理の前に、私たちは素直にひざまずこうではないか。
■何時もおいしいネタを振ってくれるアルルの男・ヒロシさんのエントリーでこの本の
出版を知ったんですが、流石の私も9月の時点ではスルーするしかありませんでした。その後の経緯は私の公開自慰を「飽きずに御覧になってる物好きな皆様」なら御存知の通りですよね?
■1190 『国家神道』 村上重良
「こんなことはいまさら強調するまでもないが、日本は長きにわたって神仏習合あるいは神仏併存の国だったのである」
■1191 『プロダクトデザインの思想』 三原昌平編
「手段だったものが目的となって居座り、あきらかに形骸化されたものでも、それを壊そうとしない国民性があります」
■1192 『DJバカ一代』 高橋透
「最も劇的な頽廃の拠点であって、最も尖ったモダリティの最前線であることはすぐに感じ、その変態ディープな気分を嗅ぎにクラブに出向くことは好きだった」
■1193 『黒御簾談話』 杵屋佐之忠
「付師は舞台経験が豊富な万事に見通しのきくプロ中のプロで、作者・役者・演出家・演奏家の好みをいかようにも組み立てられ、かつ変更できる能力と権限をもっている」
■1194 『東洋思想と新しい世紀』 後藤康男編
「となると、『千夜千冊』でもそろそろ儒教の正体にふれておかなくてはならないということなのだろう」
■1195 『コンテンツ・フューチャー』 小寺信良・津田大介
「さらには自在な自己編集と大胆な相互編集をほどこしていこうというものだ」
■1196 『横井小楠』 松浦玲
「これがのちにどんな相手とのディベートにも屈しない強靭な言辞的な性格をつくり、木戸孝允が「横井の舌剣」と惧れたほどになる」
■1197 『寺山修司と生きて』 田中未知
「ほんとうは今夜にこの本をとりあげるのはいささか辛いのだが、この実感を遠のかせたくはないので、ごく少々ながら紹介する」
■1198 『童子問』 伊藤仁斎
「『学ぶことは教えることである』『教えることは学ぶことである』という方法の同時を、仁斎が徹底しようとしていたことを了解した」
■1199 『金枝篇』 ジェームズ・フレイザー
「なぜかというに、われわれは学者なんかになりたいわけではないからだ。古代の時空を「セカンドライフ」のごとくに滑空する者でありたいのである」
■1200 『ヘルダーリン全集』 フリードリッヒ・ヘルダーリン
「愕然として、呆然となり、何も手がつかなくなった」
■1201 『アナーキズム』 浅羽通明
「その玻璃の器にも似た脆さ、透明さ」
■1202 『地の果ての夢・タンジール』 ミシェル・グリーン
「スノッブな欧米人たちの『たまには精神を凌辱されたい』と思う、例外的な気持ちであったわけなのだ」
■1203 『逝きし世の面影』 渡辺京二
「問題があるとすれば、そのことを『 無言』ではなく、『有言』として、日本が世界に示さなかっただけだということになる」
■1204 『虚数』 スタニスワフ・レム
「すなわち『モノエティックス』(単創)『ミメーシス』(模倣)『ソフォクリシス』(知批判)、『ヴァージョン』(変節)である」
■1205 『儒教とは何か』 加地伸行
「あーあ、歳をとったなあ」
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■I have a dream that one day this nation will "RIZE" up(Soundtrack・DVD・YouTube)
■今朝の新聞で表参道シャネルブティックの広告写真見たけど「完璧」だった。(資料)